恋するガラテア 9.5

 抱きしめたら、ユーリのあたたかいにおいがした。
 きつくきつく腕の中に閉じ込めて、やっと鎧ごしにもその体温を感じる。生きている証のそれが嬉しくて、柔らかい女性の体だけれど、力を加減することができない。

「おい、痛えって!」

 腕の中でユーリが悲鳴を上げても、フレンは腕の力が緩められない。その肩口に顔をうずめ、フレンはその優しいにおいを胸いっぱいに吸い込んだ。
 ユーリが無事だった、とは聞いていた。それに大いに喜びはしたけれど、会うことはかなわなかった。見つかった彼女は病み上がりのくせにあっさりと旅を再開し、あちこちを駆け回っていたからだ。フレン自身、統率者を失った騎士団をまとめるのに忙しく、すぐには会いに行けなかったというのもある(仕事放り出して会いに行ったら嫌われるどころじゃ済まない)。あれほど旅先で顔を合わせていたのに、図ったかのように、あれからはぱたりとなくなっていた。だから実感だのなんだのというものは一切なく、今日までのフレンはただ無事のひとことに安心していただけだった。

「おまっ、鎧着てんだから……ほんとに痛えっ! しかも締めすぎ! 放せバカ!」

 これまで感じなかった分、怒涛の勢いで実感が押し寄せる。腕の中でユーリが暴れようと叫ぼうと、それさえフレンを安心させる要素にしかならなかった。
 ――これは本当に、本物のユーリだ。いつものように自分のことには無頓着で、自信たっぷりで、皮肉屋なのが愛しい、真っ直ぐな幼なじみ!

「よかった……!」
「ああ!?」

 絞り出した声はかすれていて、はっきりとした言葉にはならなかった。フレンとしてはつぶやいたつもりのそれが聞き取れず、ユーリがさらに暴れる。
 そんな彼女には構わず、フレンはもう一度つぶやいた。まだかすれているけれど、さっきよりもずっとはっきり声が出る。

「本当に、ユーリだ……!!」

 その瞬間、ぴたりとユーリが大人しくなった。小さく身じろぐのを感じたけれど、それは抵抗とかいう類のものではない。ただフレンの様子を窺おうとしているのだろう。

「あの時、」

 声にしながら思い出すのは、あの日のこと。

「追いかけたらもう君はいなくて。遅いって笑ってくれるって言ったのに、君は」

 すでにもう、あの場にユーリはいなかった。
 追いかけてこいと言い、ずっと追いかけてきているのだと思っていた彼女は、いつの間にかフレンに追いついていた。そして、気がつけば追いこして、フレンの前を走っていた。フレンが立ち止まる間も止まらず、ただひたすら真っ直ぐに、ユーリは走り続けていた。
 いつの間にかその背中が見えなくなっているくらい、ずっとずっと先まで、ひとりで。
 ユーリが小さくため息交じりに悪かったよ、と言った。

「ダメージ食らってたし、ちょっとふらついたら落ちちまったんだ」

 ウソだ、とフレンは思った。言葉にこそしなかったけれど(だってなぜこんなウソをつくのかはわかっている)、思わず腕にさらに力がこもる。そして意図することなく本音が漏れていく。

「もう一度、君とちゃんと話ができると思ったんだ。昔みたいにまた一緒に笑って話ができるんじゃないかって」
「……フレン」
「君に話したいことはいっぱいあった。君から聞きたいことだっていっぱいある。なのに肝心の君がいない」

 こわばっていた腕が少しだけ緩んだ。力の入っていたユーリの体からも、ほっとしたように力が抜ける。そして上げられた顔がぽかんとして、なんて顔してんだとつぶやいた。
 わかっている。今自分がどんなひどい顔をしてるかくらい。きっと今にも泣き出しそうな顔をしているはずだ。もうひどくてひどくて、からかわれて大声で笑われたっておかしくないような顔のはず。でもいい、そんなの気にしていられるか。

「誰が諦めても、僕は諦めたりしないさ。ただ君がいないことだけがつらかったんだ」

 ユーリは生きている。そう信じていたって、目の前にその姿がない恐怖は常にどこかにつきまとう。それは彼女の無事を知らされてからだって同じで、結局実際に彼女の姿が見れたわけじゃあない。いつでも、無事だという言葉は聞き違いじゃないのかとか、都合のいい夢を見ているんじゃないかとか、とにかく本当に心が休まる時なんてなかった。
 ユーリがいない、その事実をつきつけられる。諦めなくても、会おうと思えば会えるという希望がないのは痛い。とっくの昔に諦めていたっておかしくない。お前は強いよな、とユーリが褒めてくれる、忍耐に長けたフレンの精神力だからこそ、耐えていられたとも言える。

「……怖かったんだ」

 つぶやいて、再びユーリの体を抱き寄せた。ただ包み込むように、腕を回して。でもしっかりと、逃がさないように。逃げられてたまるものか、と思う。もうこの手を離したくなんかなくて、このままずっと近くにいれたらいいと、そんなようなことで頭がいっぱいになる。彼女の笑顔も声も、心も体も何もかも、手をのばせば届く位置にあればいいのに。
 彼女の体温と優しいにおい。それがこんなにも安心させてくれるだなんて、思いもしなかった。彼女がこんなにも愛しいなんて、自分でも驚いた。

(ああ、そうか)

 答えは突然、すんなりと降りてきた。

(僕は、ユーリが好きなんだ)

 それもきっと今に始まったことじゃない。きっと、もっとずっと昔から。すとんと突っかかっていたものが落ちて、心の中にかかっていた靄が晴れる。彼女が下町を飛び出してから今まで、時折感じた強烈な衝動はすべてそのせいだと――幼なじみだからこそ誰よりもよく知っているはずの愛しいユーリが、自分の知らないところへ行ってしまうことへの焦りと、ずっと気づけずにいた想いを初めて見る彼女の姿に刺激されたためだと、やっとわかった。何もかもすべて、ユーリへの恋情のためだと、いまさらになってやっと気づいた。
 ……いまだに、どこか吹っ切れていないものがあった。騎士を統べる者としてのアレクセイのあの顔を忘れられず、彼に剣を向けたことに深い悲しみと痛みを覚えていた。けれど、それももうずいぶんと軽くなっている。
 ユーリという心の支えは、これほどまでにも強いらしい。思って、フレンは苦笑する。それに気づいてなかった自分は、なんとまあ鈍感なのか。
 けれど、ユーリはそんなことなど知るわけもない。すがるような腕に呆れたか、小さく長く息をつく。でも紡がれた言葉が、その予想を裏切った。

「……悪い、心配かけた」
「そう思うなら、少しは無茶を控えてくれ」
「はは、そりゃまた難しい相談だな」

 けらりと笑って、反省のカケラもない発言をする。フレンも別に咎めはしない。だって、それがユーリなのだと知っている。無茶を恐れて戦わないユーリは、ユーリじゃない。その身を案じるのと、彼女が彼女らしくなくなることと、それとはまったくの別問題。
 ユーリの両腕がフレンの背に回る。ぽんぽんとたたかれるそれがまるであやされているみたいに心地いい。また少しだけ腕に力を入れ、その華奢な体をしっかりと抱きしめる。ユーリが小さな声でフレン、と呼んだ。

「えーと、ま、ただいま」
「ああ。お帰り、ユーリ」

 抱きしめ、花や草や風のにおいをさせる彼女の髪に顔を埋める。子どもの頃に感じていたのとは違うけれど、すごく落ち着くにおいがした。

「……ねえ」
「なんだよ」
「約束」
「は?」
「"たとえどんなに離れていても、心まで離れることなく"」
「……突然どうしたんだ、お前」
「僕は、君から離れてしまってた」

 つぶやくと、ユーリは少しだけ間をおいて、お互い様だろと言った。

「俺だって、お前にあれこれ隠したあげくに距離とってたしな。おあいこだ」
「だからこそだ。もう一度ちゃんと約束がしたい」

 ひとりよがりのただの自己満足だから、とは口には出さないけれど。
 子どもの頃の約束をもう一度なんて、ただの口実。フレンがただ、ユーリを近く感じていたいだけだ。ユーリはそんなフレンの気持ちなんて知らないのだから(だってついこの間までまともな形をなしてなかったものを、いかに敏い彼女だってどうやって悟るっていうんだ)、きっと不思議に思えるんだろう。
 でもいいんだ。フレンは心の中でこっそりと笑う。ユーリはまだ知らなくていい。目の前のことに集中しているユーリに、余計な雑念は入れたくない。とりあえずなんでいまさらなんて、不思議に思っていてくれればいい。

(だから何もかも終わったら)

 終わったなら、その時は打ち明けてみようか。
 ユーリは困った顔をするんだろう。そして優しい分、答えにも困るに違いない。でも絶対に、今より互いの関係が悪くなることはないはずだ。フレンには不思議とそんな確信があった。だって、あんなすれ違いを経験しても、また戻ってこれたのだもの、たとえこの想いを彼女にぶつけたとしても、またきっとここへ戻ってこれる。
 それに、とフレンは思う。ユーリとそういう関係になれたらそれは嬉しいことだけれど、無理になりたいわけじゃない。ただ、幼なじみとしてだけじゃなく、女性としても大切に思っているのだと、知ってくれたらちょっと嬉しい。それだけ。

「ユーリ」
「ん? ……ってちょっと待て!」

 いつもの約束のつもりで、そっとその唇にキスをしようとしたら、慌てた彼女に止められた。寄せようとした唇には、手のひらが押し付けられる。

「どうかした?」
「バカ! こんな公衆の面前でキスする奴がいるか!」

 叱られて、はっと我に返る。
 慌てて振り向くと、遠くにはしゃぐ彼女の仲間たちや、フレン自身の部下たちの姿が見える。魔物を退けた喜びに沸き上がっているらしく、ここまででかい歓声が聞こえてくる。幸いこちらを見てはいないようだけれど、

「いつ誰に見られるかわかんねえだろうが、こんなとこでなんて」

 二人にその気はなくたって(まあユーリはともかく、フレンはそう見えたってもうまったく構わないのだけれど!)、はたから見ればそういうことに見えるのだというくらい、さすがに今はもうよくわかっている。
 フレンは彼女の背に回していた腕を、名残惜しいと思いながらもそっと解いた。抱き合っている時点で、そういう意味じゃあもう相当アウトだったなあと、いまさら思う。呆れきっていたその頬が、ほんのちょっとだけ赤らんでいたような気がするのは、さすがに都合のいい妄想だろうけれど。

「……約束すんのはいいけど、キスすんのはせめてあいつらが見てねえとこでにしてくれ」
「……そうするよ」

 戻るべく歩きだすと、音もなくラピード(周囲の様子に気を払っていてくれたらしい。まったく、頭が上がらない!)が寄り添ってきた。そして二人の顔を交互に見ると、わんと一声鳴いた。たぶん、俺がいるとこでもやめてくれとでも言ったのだろう。

「ごめん」
「悪ぃ」

 謝罪の声がかぶって、思わずきょとんとする。それが妙におかしくなって、二人揃って盛大に笑い声をあげた。
 それを見たラピードが、ゆらりと大きなしっぽをひとつ振った。また呆れられてしまったのかもしれない。

やっと土俵に上がってきたフレン
[2008.11.2 執筆/2009.1.7 加筆修正]

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