フレン、と彼女が上げたその声が、まるで悲鳴のように聞こえた。
駆け寄る足音がして、ぐらりとかしいだ体が支えられる。ゆっくりとその場にひざをつかせてくれたそれがユーリなのだと、すぐに気付く。脇腹が焼けたように熱い。貫かれた痛みに歯を食いしばりながら、フレンはゆっくりと顔を彼女の方へと向けた。
すぐそばに、ユーリの顔があった。いつもは強気で崩れない彼女が、少しだけ焦ったように眉間にしわを寄せている。それでもいつもの自分を保とうとしているのだろうなと、らしすぎる彼女に思わず笑いがこみあげた。だって頑張っているのだろうけれど、その瞳が動揺に揺れるのまで止められていない。
きれいだ、と思った。フレンの身を案じて、その澄んだ紫暗の瞳を揺らす彼女が。ただ心の奥から自然に湧いて出る。
幼い頃は逆だった。無茶をしてよく心配させたのはフレンのほうで、その身を案じるのがユーリ。そのときもこうやって、瞳を揺らしながら何かをこらえるようにじっとフレンを見つめていたものだった。無茶するなと叱りつけながら、……きっと泣きそうなのをこらえていたのだ。ただ、それもフレンが無茶をしなくなり、むしろユーリのほうが無茶をやらかすようになってからはなくなってしまったけれど。
もしかしたらフレンが無茶をしていたのは、そんな彼女が愛しくて愛しくて、しかたがなかったからかもしれない。
「お前、なんでこんな無茶するんだ」
「さあ、ね。……でも、君ほどじゃ、ない」
痛みにひきつる喉を無理やり動かし、薄く笑って見せる。もっとちゃんと笑ってあげたくても、尋常ならざる痛みがそうさせてくれない。子どもの頃と同じように、心配するなと笑い飛ばしてやりたいのに。ユーリの瞳は相変わらず不安げに揺れている。
これほど強いのは3度目か。ダングレストやノードポリカで感じたような衝動が、再びフレンを襲う。この体が動くなら、すぐにでも彼女を抱きしめたい。抱きしめて、ほら大丈夫だと笑ってやりたい。こんなにも変わらず愛しくてたまらない彼女を、心から安心させてやりたいと、そう思った。
痛みをこらえ、右手を精一杯動かして、それでも気を抜けばすぐに落ちてしまいそうになりながらだけれど、自分に添えられているユーリの手に重ねる。力を込めて握って、できる限りの笑顔を浮かべる。さあ、笑え。強く、不敵に、彼女をこれ以上心配させないように!
その間にもエステリーゼの唱える治癒術がフレンの傷を癒していく。流れ続け、傍らについていたユーリの白い膝を真っ赤に染めていた血も、だんだんと止まっていく。
「……エステリーゼ様、もう大丈夫です」
痛みも幾分和らぎ、出血も完全に止まった頃、フレンはかざされていたエステリーゼの手を押しやった。もう、発声を痛みに邪魔されることもない。しゃべれば腹には響くし痛むけれど、ここからはフレンの拙い治癒術でもなんとかなる範囲だろうと踏んだ。
「だめです、フレン! まだちゃんと治っていないのに」
「あとは自分の力で何とかできます。それより」
まだ離したくないと思う気持ちを抑え、ユーリの手から自分の手を引きはがして顔を上げる。酷薄な笑みを貼り付けた、かつて憧れた男の姿がある。いずこかへと去りゆこうとするそれを睨み据えて、言った。
「アレクセイを止めてください。そのための力を、僕にこれ以上割かないで」
「フレン!」
「フレン、お前っ」
「頼む、ユーリ。取り返しがつかなくなる前に、行ってくれ。僕なら大丈夫だ。必ず後から追いかける」
笑って添えられたままだったその手を離させると、ユーリはそれ以上何も言えなくなった。彼女がこういう言葉に弱いと知っている。だからこそ選んだ言葉だ。確実に、彼女の背中を押すために。そして彼女が動けば、エステリーゼや彼女の仲間たちも動く。
ユーリは一度唇をかみ、それから立ち上がった。血に濡れてしまった膝をぬぐおうともせず、真っ直ぐに駆けだす。
「心配しなくても、お前が来る前に全部終わらせといてやるよ」
そして、遅いって笑ってやる。
肩越しに振り向いた彼女は不敵な笑みでそう言った。……そう言ったのに。
今、ここにユーリの姿はない。
あるのはアレクセイだったものと、点々と残る血の跡と、血に濡れて落ちたナイフ(騎士団員の装備だけれど、今はそれが誰のものなのかなんて考えるつもりもない。それどころじゃない)。先行させた部下の報告を聞かなくとも、床の端で切れた血の跡を見れば、彼女がどうなったのかは一目瞭然だった。床の向こうには、青く広がる美しい海がある。
「ユーリ」
呼んでも、返事の来るわけがない。どこかに隠れているんじゃないかと思いかけて、すぐかぶりを振る。彼女はこういう状況下で、そういう冗談を言うような性格ではなかった。
遅いと笑ってくれるんじゃなかったのか。つぶやくことさえできず、フレンは切れるほどに力を入れて唇をかみしめる。手の中には先ほど握りしめた彼女の手の感触が残っている。剣を扱うにしては、あまりに女らしい華奢な手も、昔の彼女のままだった。
やっと、以前のように彼女がフレンの前で笑ってくれた。もう彼女とともに歩くことはおろか、笑い合うことさえできなくなったのだと諦めていた矢先だ。完全に失ってしまったと思っていたものが、再び触れられるほどそばにきた、その喜びと言ったらなかったのに!
フレンは顔を上げた。踵を返し、無言で歩きだす。隊長、と部下の声がした。
「隊長、どちらへ」
「船に戻る」
低く出た声に、背後で息を飲む気配がした。普段の自分らしくない、とはわかっているけれど、自分をいつも通りに保つことさえ、今のフレンには難しい。ユーリの身を案じるだけで精一杯だった。
「すぐ船を出して、隊全体で捜索を行う。この辺りにはそれほど潮の流れの速いところはないはずだ。……海に落ちたとしても、急げばそう遠くまで流されることはない」
止めていた足を、再び動かす。今度は制止するような声はかからず、代わりにエステリーゼがわたしたちも探しましょうと言うのが聞こえた。すぐさま同意の声が返って、複数の足音がフレンを追ってくる。
諦めてはいない。彼女は簡単に死んだりしない。ただ足早に歩を進めながら、フレンはそれだけを考える。ユーリの幼なじみとして、誰よりも彼女が強いと知っている。けれどフレン自身は強くない。むしろ弱い。彼女とすれ違ったまま別れたノードポリカの夜のような、強烈な激痛がフレンを襲う。一度失ったものをもう一度失うなど耐えられず、ましてや彼女の存在までも失われるようなことになればフレンだって生きてはいられない。後を追うような真似はしないけれど(それはやったら彼女に嫌われるどころでは済まない)、この心は死んでしまう。だからこそ。
彼女の無事を確信し(そうでもしないとやっていられなかった)、未だ正体のつかみきれない想いを抱えて、フレンはただ急ぐことだけを考えていた。
つかみかけてすれ違う
[2008.11.10 執筆/2009.1.7 加筆修正]