恋するガラテア 6

 エステルが、血で濡れた手を少しだけ震えながらもしっかりと握って、はっきりと言った。

「いいえ」

 怖くなんかありませんと、彼女は気丈に微笑んだ。そして、一言付け足した。

「ユーリの手は、人の幸せを守る手です。罪という言葉で汚れるものじゃありません」

 フレンだってわかってくれます、いえわかっているはずです。
 そう言って微笑んだエステルは、いつもと同じ顔をしていた。ずいぶんとそれに救われて、だからユーリも、サンキュと一言礼を言った。ついでに、そうだったらいいなと肩をすくめた。

 けれど現実はそううまくいかないと、ユーリはエステルよりよく知っている。
 もちろん、いずれはと思っていても、だからといってこんな形で決別を迎えることになるなんて思いもしなかった、というのが正直なところだ。
 なぜ、しか思い浮かぶ言葉がない。それは動揺ではなく、あくまで怒りと悲しみによる。
 夜のノードポリカ。ショックのあまりうつむくことさえできずにいるエステルを連れ、フィエルティア号へと駆け戻るユーリたちの前に立ちふさがったのが、よりにもよってフレンだった。確かにマンタイクでフレンとソディアが交わしていた言葉の中に、ノードポリカという単語が出てはきていたけれど、こんなところで鉢合わせするとは思いもしなかった。そしてそのフレンが、いまさらエステルと、何より聖核を渡せと言いだすなんて想像できるはずもない。

「こんなこと、俺に言わせるな」

 何のために騎士を目指したのか。世界を変えるとはどういう意味か。それがわかっていると思うからこそ、ユーリはフレンの影になれる。でも、フレンが今の世界に飲まれてしまうと言うのなら、ユーリは彼の影ではいられない。フレンという強烈な光のそばだからこそ、深く濃い影が生まれる。その光が褪せてしまえば影は薄まるばかりで、へたをすれば光自身、影に飲み込まれてしまいかねない。
 それに、とユーリは唇をかみしめる。そうとは知らずとも自分を慕うエステルに、なぜこうまで冷たくなれる。……少なくとも、エステルが絶対の信頼をフレンに寄せていることくらいは気づいているはずだろうに。ユーリが知り、愛したフレンは、こんな冷酷な男ではなかったのに!
 ユーリはフレンを睨みつけた。こんなに近くにいても、フレンの表情はうかがえない。月明かりもある、街灯もある、夜を払うには十分な量の光がある。フレンだって顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見ている。それはわかる。それでも、その表情だけはどうしても見えなかった。
 黙ってユーリの言葉を聞いていたフレンが、ゆっくりと口を開く。

「なら、僕も消すか」

 低い声が夜気を揺らす。

「ラゴウやキュモールのように、僕も消すと言うか」

 それって、と背後でカロルが息を飲むのが聞こえた。
 ユーリはフレンを見つめたまま、すっと目を細める。

「お前が悪党になるならな」

 風が吹く。強い潮風が髪を巻き上げ、その瞬間の表情を隠した。それが好都合だったのかはわからない、ただユーリからもフレンの顔を隠してくれて、その顔を見ずに済んだ。今まで見えなかったものもこの時だけは見えそうな気がして、少しばかり嫌だったから、それだけは救いだった。それに、愛する男であろうと(いや、だからこそと言えるのだけれど)斬ると平然と言い放つ女の顔など、たとえフレンの知らないこととはいえ、見られたくはない。そういう意味ではやはり、好都合だったのだろうか。
 ケンカならあとにしてとリタに叱られ、船へと走る。一度は剣を抜こうとしたフレンも、横をすり抜けても声を上げず、微動だにしない。フレンを呼ぶソディアの声が聞こえたけれど、それにもフレンの声は返らない。
 船に駆け込む直前、立ち止まって一瞬だけ振り返った。フレンは相変わらず微動だにせずこちらに背を向けていて、何も窺い知ることはできない。ただ、それが少しだけ震えているように見えたけれど、でもきっとそれは風のせい。そう思い、ユーリは今度こそ船へと駆けこんだ。
 この道を歩くと決めた時から、いずれはと覚悟していた決別。でもこんな形で迎えることになるなんて、それこそ想像だにしていなかった。心と心の間にできてしまった大きな溝は、果てしない距離となって横たわる。こんなに近くにいても、なんて遠い。
 現実とは残酷なものだと、乗り込んだ船の隅でひとり、唇をかみしめた。

ノードポリカ、港にて
ユーリの中では悲しみと怒りが紙一重
[2008.11.9 執筆/2008.11.23 加筆修正]

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