真っ赤に染まった左手。飛んだ返り血。暗く沈んだ瞳が光を飲みこみ、真っ直ぐに虚空を見ている。
見た目を取り繕うべく降りた川べりで水面に映した自分は、まあそんな態だった。
(ひどいナリだな)
笑おうとする。頬と唇が歪んだだけで、それは笑みにならなかった。もしもそれを笑ったと表現するのなら、ひどくいびつだと思う。
着ていた服をすべてその場に脱ぎ捨てて、剣だけ携え、川に入る。髪や体についた血だけは洗い流さなくては宿に戻れないし、何よりいつまでもあんな悪党の血がこびりついているのに耐えられない。剣も同じだ。ただ服に関しては、もともと旅に出て以来砂埃やら魔物の血やら、とにかく汚れるにいいだけ汚れているから、洗わなくても問題ないだろう。多少血が跳ねた程度では何がどう変わったかなどわからない。そりゃあ、やっぱり服にだってあんな奴の血がついたままなのは嫌だけれど、変に洗って、夜明けに乾かなければ逆に怪しまれるだろうと踏んだ。それは絶対にまずい。
星明かりの下、真っ白な裸身を汚す赤を洗い落とす。音がしようと、この時間のこの辺りには人は来ない。夜ににぎわうのは酒場の多い中心部、そこから今いるこの場所は少しばかり遠い。時折風が酒のにおいと喧噪を運んでくるものの、近くには何の気配もなかった。
顔を洗い、髪について固まった血を揉み、溶かして落とす。剣を水の中で何度か振り抜き、その後で軽く撫でるように拭う。元の白さを取り戻していく自分の体と刃を見つめ、それから左手を見つめた。一番血に濡れたはずの手も今は元通り、白い。ただ見た目がいくらきれいになっても、二度と消えないものがあることを、ユーリは誰よりも自分自身で知っていた。たとえ許されないような人間でも、それを手にかけた者だって許されはしないのだ。
後悔はない。ただ、他に思うことも何もなかった。無感情につとめるべく伏せた睫毛の下で、紫黒の瞳が小さく揺れていた。
これだけフレンと近くで会うのは、ダングレストのあの夜の後、初めてだった。
ヘリオードで会った時にはそれほどゆっくりしている暇もなく(それはある意味ユーリにとって好都合であったのだけれど)、ろくに言葉も交わさないうちに別れた。けれど今日はそうもいかない。
闘技場決勝戦、その相手がフレン。なんて偶然で皮肉だと、内心で苦笑せざるを得なかった。何度も剣を合わせ、互いの息がかかる距離まで近づく。その中で言葉も交わした。やっぱりフレンは強くて、そのフレンと戦えることは純粋に嬉しかった。ユーリは戦うことが好きだったし、それはあの夜の後も変わっていない。一方的に奪うだけじゃない、互いにぶつかり合うことが、……もしかしたら以前よりも好きになっているかもしれない。ましてや相手がライバルでもあるフレンであれば、それはなおさら。
だから正直、邪魔が入った時にはなんてタイミングの悪い、とため息が漏れるのを止められなかった。
ただ、そうして戦うことを楽しんでいたユーリは、その間に大切なことを忘れてしまっていた。戦っている間はいい。フレンだって余計なことは口にしないし、それはユーリも同じ。けれど終われば、フレンが今回の経緯を聞いてくるだろうことは(もちろんユーリだって聞きたいことは山ほどあったけれど)明らかで、それはとりもなおさずフレンときちんと向かい合って話さなければいけないということだった。
「それで、これは一体どういうことなんだ?」
ザギの乱入、その混乱に乗じたラーギィの裏切り。持ち去られた箱を取り戻そうと走りかけたところを、案の定フレンに呼び止められた。来た、と思って仕方なしに足を止める。少し先からカロルが早くと呼ぶのを先に行かせ、ユーリは向き直ってフレンを見る。
彼の顔を真っ直ぐに見るのがこれほど労力のいることだとは思わなかった。
「悪いけど、俺は俺らをハメた奴を追わなきゃなんねえんだ。ゆっくり説明してる暇はねえ」
「でも君は、今何が起こっているのか知ってるんだろう?」
「話なら今度ゆっくりしてやるって」
じゃあなと再び走り出そうとすれば、そこへフレンの手が伸びた。身をひるがえしたユーリの肩には届かず、腕をかすめたその指は、かろうじて左手をつかむ。
どくりと心臓が嫌な音をたてた。その瞬間に脳裏をよぎったのは、
「っ!」
気がつけば、力任せでその手を振り払っていた。ほとんど反射だったのだろう。推測になってしまうのは、ユーリ自身、何が起こったのかいまいち理解できていないからだ。
あの夜、真っ赤に染まった自分の手を思い出した瞬間に、体が勝手に動いていた。振り払った姿勢のまま、胸の高さにある左手の向こうに、驚いているフレンがいる。それが少し変化して、どこか傷ついたような表情に変わる。まさかこんな風に拒絶されるだなんて、思ってもみなかったに違いない。ユーリだって驚いているくらいだ。未だかつて、ユーリがフレンを拒絶したことなどなかったのだから。
それでも申し開くことはないとユーリは思った。その時間も惜しいし、……何より余計な事を言いそうな気がする。
「本当に悪いけど、お前につきあってる余裕はないんだよ。またにしてくれ」
今度こそはっきりと傷ついた顔をしたフレンに背を向け、ユーリは真っ直ぐに駆けだした。そんな顔をしたフレンを見ていられない。今度は伸びてきた手に止められることもなく、代わりにユーリと呼ぶ声が聞こえる。もちろん、戻るつもりも止まるつもりもなかった。
走りながら、動揺が隠せていたらいいと思った。フレンの、あの穢れない彼の手が罪にまみれた左手に触れたこと、それを振り払ってしまった自分。何もかもに動揺したことが、フレンに知られていなければいい。
そう思いながらも、また別のことで動揺する自分がいた。フレンへの拒絶。傷ついた表情。それが大きな隔たりを、互いの心に生んでしまった。衝撃は受けた瞬間よりも、あとからじわじわとやってくるダメージの方がタチが悪い。それは物理的なものに限らず、精神面においても同じらしい。熱くなる目元を、風が冷ますように拭っていく。エステルやソディアが現われても平気だったのは、ずっと友達としてそのそばにいられたからなのに、それさえ叶わなくなった心は何としても鎮まってくれない。
――"どんなに離れていても、心まで離れることなく"。ダングレストでのキスが遠い幻のように記憶の中で揺らめいていた。
ダングレストでの暗殺から、ノードポリカの闘技場へ
恋するが故に離れていくユーリさん
[2008.11.7 執筆/2008.11.23 加筆修正]