タイムマシン199X (2)

 去年の夏のキャンプ最終日、その夜。
 普段から自分の現役時代については全く語らない(そしてそれは今も変わらない)達海が、珍しくつぶやいた一言で、彼もまた寝る前に自主トレをしていたらしいというのは知っていた。知っていたから、今数歩先を歩く達海が夜の町でジャージ姿なのは、おかしいと思うどころかむしろひどく納得できる。もともとマイペースな変わり者らしいというのも、自分の経験則と有里の昔話から理解しているつもりである。
 だからといって、これはどうなのかと思う。
「あ、あの、達海さん」
「何? 椿」
「選手の達海さんはともかく、俺とかが勝手に入っちゃまずいんじゃ」
 達海の現役当時なんて、椿はまだランドセルを背負ったお子さんだ。まあそんな常識は外したとしても、最低限椿は達海のチームメイトではない。達海から見た椿は部外者でしかないはず、なのだけれど。
 なぜだか今いる場所はETUクラブハウスの前、練習用グラウンドである。
「いいって、どうせ誰もいねえし。バレないバレない」
 達海にとってはそのあたりは全く気にならないらしい。
「そういう問題スか?」
「だってお前無害そうだもんいろんな意味で」
 早く来い、と手招きする達海に、椿は諦めてネットをくぐった。達海は言いだしたことは曲げないし引っ込めない、抗うだけ無駄だ。……それにしても夢にしたってこの理由付けはめちゃくちゃすぎやしないだろうか。そしてなんだろうこの理不尽にしか思えない最後の一言は。
 ため息交じりに招き入れられたそこは、椿のよく知るグラウンドそのままだった。遠くの景色や物の置いてある場所に多少の違いはあれ、ほとんど違いはない。そこにプレーヤー用のジャージでたたずむ達海、というのが一番の違和感だった。
「さーて、やっかー」
「やるって、何をですか?」
「何言ってんだよ。ピッチでやることったらいっこしかないだろ」
 ひょいひょいと駆けていく達海が、おーい手伝えーなんて叫ぶので、しかたなく椿もついていく。
 引っ張り出してきたボールをいくつか抱え、ついでに達海はとんとんと頭でリフティングしながら移動する。自分の日課のときなら椿もやることだけれど、さすがに今はやれる気がしない。
「じゃ、椿」
「は、はい」
「俺テキトーに走るから、パスちょうだい」
「え、ええ!?」
「いいパスしろよー」
 言うだけ言って、達海はさっさと走って行ってしまう。どこまでマイペースなのかと言いたくなるけれど、言ったところで、ボールと違ってスルーされるだけだ。そもそもまず達海にまで届くかどうかも問題である。距離的なものとは別問題で。
「椿ー!」
「は、はいっ!」
 遠くから叫んでくる達海に向けて、椿は慌ててボールを蹴り、――明後日の方向へ飛ばした。
「……椿ー、俺こっちー」
「あ、ス、スイマセンッ!」
 あわててボールを追いかけ、再び達海のほうへ蹴ろうとして、損ねて、数メートル飛んだだけで地面に落ちる。とんとんとん、小さくバウンドしていくのがむなしい。
「……………椿ー」
「ああああのスイマセン!」
 当然と言えば当然ではある。
 よくわからない状況で、しかも達海の前でリラックスできたことなどほとんどない。この達海は知らないこととはいえ、チキンの椿が落ち着いてやれるほうがおかしい。いかに夢の中でも無理なものは無理だ。
「……まあいいけどさー」
 達海が頭をかきながら戻ってくる。
「お前さ」
「ウ、ウスッ!」
「もしかして緊張してんの?」
「あ、え、えと」
「してんね」
「う、スイマセン」
「いーよ別に。じゃあとりあえずパス練でもしよ」
 椿が先程転がした(と言ったほうがきっと正しい)ボールを蹴ってよこし、これくらいならできるっしょ、と笑う。
 それでもやりかねないのが自分なのだという自覚がある分、椿はやっぱりがちがちに緊張して、それでもなんとかボールを返す。
 夜のグラウンドに、ボールを蹴る音だけが響いた。会話もなく、おまけに椿は達海の顔を見ることもできず、もくもくと交互にボールを蹴り続ける。ただ、不思議なことにその空間は居心地の悪いものではなかった。居心地がいいというわけでもないけれど、でも、椿の中に張りつめていた緊張がゆるゆると溶けだしていくくらいには、心地のいいものだった。
 ときおり、椿のボールが浮くのを、達海はトラップして返してくる。顔は見られなくとも、動きが見える程度には顔は上がっているから、その様子はちゃんと見えている。
 ボールを受け止める達海の空気に、椿は自分が飲み込まれていくのを感じていた。有里とビデオを見ていたときに覚えた感覚と似ている。けれど、今感じているものはあれよりももっとずっと強い。
 風が吹く。椿の周りで生まれた流れは、ただの夜風か、椿がそう感じたからなのか、よくわからない。
 達海が笑ったのはそんな時だ。
 珍しく、達海の蹴ったボールが浮いた。いや、浮かせたのだろう。明らかに意図を持って浮き上がったボールをトラップする椿の耳に、自分を呼ぶ達海の声が届く。
 顔を上げれば、走っていく達海の背中が見える。椿は引き寄せられるようにドリブルでその背を追う。やや開き気味に走ると、再び達海が椿を呼んだ。
 椿は迷わずクロスを上げる。達海の行く手に、いるはずのない敵選手が見えた。達海さん、無意識に声が出る。その手前でボールを受けた達海はつま先でボールを跳ね上げて、ひらりと選手をかわしていった。全身からあふれる空気が夜の闇を忘れるほどに輝いていた。息をのむ椿の前で、達海の右足が振り抜かれる。
 気付いた時には、ボールはゴールの中に落ちていて、ネットが静かに揺れていた。
「よっしゃー」
 ナイスクロス、と笑った達海がボールを拾い、休む間もなく椿に向けて蹴った。

つぎでさいごです
[2010.6.5]

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