さよならする時間

「さて、そろそろ行くか」

 振り向けば、ユーリがちょうど立ち上がったところだった。
 帝都を拠点にあちこちを旅しているユーリがエステルの家――ハルルを訪れた時には決まってハルルの木の下に座り、のんびり語らうのがお決まりになっている。話題は他愛もないことで、あそこの街が今はどうだとか、どこそこの店においしいメニューができたとか、まあそんな内容。それがエステルは好きで、というよりもユーリと話ができること自体好きではあるのだけれど、とにかくハルルの木の下での時間はエステルの宝物になっている。
 ただ、ひとつだけ言うことがあるとするならば、

「もう行くんです? ユーリ」

 思わず出てしまった言葉にユーリがきょとんとして、エステルははっとした。急に恥ずかしくなってうつむく。まだ日は高く、すべてを白日の下に照らし出しているけれど、こうしていれば彼からは赤くなっているであろう顔(かっかととにかく熱い!)は見えないはずだ。ああ、なんてことを言ってしまったの、と頬に手を当てる。
 旅を終えて、みんなと別れて、知ったのは再会の喜びと別れの淋しさだ。時々みんなで集まったり、誰かのところへ遊びに行ったり、逆に誰かが遊びに来たりと、今だってみんなはみんな、ずっと仲間。それはよく知っていて、きっとこれから先何があったって壊れないとわかっている。なのに、辛いと思うことが多々ある。それが主にユーリとの間に感じるのは、恋をしているからだとは思うのだけど。
 ユーリがふっと笑う。その笑顔さえ尊くて、嬉しくて、まぶしい。

「引き止めてもらえんのは嬉しいけどな。今日中に一度帝都に戻んなきゃなんねえんだ」

 くしゃりと頭を撫でてくる手が暖かくて優しくてどきどきする。

「フレンの奴に呼ばれてな」
「フレンに?」
「なんか用があんだとさ」

 んー、とひとつ伸びをしたユーリの顔が、再びこちらを向く。それからくっと吹き出した。

「なっ、ユーリ、失礼です! 人の顔を見て笑うなんて!」
「悪い悪い、あんまりにもかわいい顔してっからさ」
「もう! ユーリったら意地悪です!」

 すとんとエステルの目の前に腰をおろしたユーリがくつくつ笑う。むくれたエステルの頭を再び撫でながら(今度は柔らかく触れるだけの、本当に優しい触り方で)、

「心配すんなって。明日は城へ行く日だろ? お前が出発するまでにはちゃんと戻ってくるよ」

 お姫様の送り迎えは凛々の明星の仕事だからな、と手をひらひらさせて、ユーリがこちらに背を向ける。
 花びらの降る中をゆっくりと遠ざかり、坂を下りて消えていく後姿を見て、慌てて立ち上がり、数歩駆けて、

「ユーリ!」

 呼ぶと、彼は立ち止まって振り向いた。その踏み出しかけていた足が後ろへすっと戻ってくるのさえ嬉しく思いながら、エステルは大きく手を振った。

「いってらっしゃいです!」

 ハルルの樹の前からユーリが帰るとき、やはりお決まりになった仕草と言葉。
 正確には、彼の住処は帝都にあって、ここはあくまでエステルの住む街だ。それでも、いってらっしゃいと言ってもいいだろうと、エステルは思っている。いつだったかにレイヴンが帰りたい場所が故郷だと言っていたこと、それにうなずいていたこと、そして彼が旅から戻ってエステルのもとを訪れた時に必ず「ただいま」と言ってくれること、それはきっとその証だと。

「ああ、おとなしくしてろよ」

 軽く手を振って答えてよこしたユーリは、今度こそこちらに背を向けて、振り向くことなく歩いていった。
 遠くへ去っていく黒い背中を、エステルは本当に見えなくなるまで見送る。心の中にぽっかりと穴があいたような寂寥感の中に、明日になればまた会えるというほんのりとあたたかな喜びがあるのを感じながら、エステルは踵を返した。明日彼がまた戻ってくるまで、書きかけの物語を書いていよう。
 今の淋しさより明日の楽しみを思いながら、エステルは足取りも軽く家路についた。家はハルルの樹からそう遠くない場所にある。

思っていたより明るい話になりました
[2008.9.6]

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