ホームに降り立った瞬間、冷たい空気がぞわりと身体にまとわりついた。
思わず腹に力を入れて、息を詰める。そうしないととてもじゃないけれど寒い。マフラーのおかげで首のところはあったかいから、それがちょっとだけ救いだった。
歩き出しながら、レノはこっそりと、何で今日に限ってこんなに寒いんだと文句を言った。
今日も今日とて、レノは仕事のためにプレートの下へと足を運んでいる。
もちろんその仕事とは、古代種と呼ばれるあの女の捕獲のことだ。そうでもなければ、プレートの下での仕事なんてそうそうない。しかもタークスのエースが単独で、なんて。
もっとも、レノはその仕事が成功するだなんてカケラも思っちゃいない(交通手段に列車を選んでる時点でもう相当やる気がない)。あの女はほそっこい見た目に反してかなり凶暴だったりするし、何より狡い手段を使っては「返り討ちー」とか笑ったりするのだ。そんなの、簡単に捕まえられるわけがない。
プレートの下は雪こそないけれど、空気だけはひどく冷えていた。上で感じるビル風なんかよりもずっとずっとひどい。制服の一部として支給されたコート、あまり使ったことはなかったけれど、あれを着て来るべきだったと少し後悔した。
ただ、それでも今日はサボろうとか、寒い外へ行くくらいなら後輩の誰かに押し付けてデスクワークをやってみようとか、そんな風には思わなかった。それはきっと、今朝気まぐれに引っ張り出してみた、あの古代種のプロフィールのせいに違いない。
歪みと錆で動かない扉の、微妙に広くて微妙に狭い、その隙間に滑り込むと、ふわりとかぎなれた匂いが鼻腔をくすぐった。
あちこちが壊れて隙間だらけで、オマケにプレートがはっきり見えてしまうような穴開きの屋根という教会は、いちおう建物の体裁を保ってはいるものの、その寒さは外とさして変わらない。でも、不思議とそこはあたたかい気がする。香るこのにおいのせいだろうか。
レノは正面を見て、はー、とちょっと息をついた。
ぎしぎしとうるさい床板を踏んづけながら、奥へ奥へと歩いていく。その先には、かがんで丸っこくなっている女がいる。
「寒いのにご苦労さんなことだな、と」
「寒くてもちゃんと花、咲くもの」
声をかけても、女は振り返りもしなかった。それどころか手を止めることさえなくて、レノは軽く肩をすくめた。すでに彼女の中で、レノの存在は当たり前になっているらしい。友達とかそういうのとは違うけれど、少なくともいちいち警戒したりしない程度には。もしかしたらこの女、レノにやる気がないのをちゃんと知っているのかもしれないと、こっそり思う。
レノはいつものように、近くの長椅子に腰を下ろした。尻の寒いのを我慢しながら、女が作業をしているのをじっと見つめる。毎回見ているのだから、いい加減飽きているはずなのに、それでも見ているとおもしろい。ぴょこぴょこ揺れる髪の毛とか、真っ黒く汚れている白い手とか。少なくともレノの知り合いで、他にあんな手をしてにこにこしているようなヤツはいない。
しばらく座っていると、限界が来た。飽きたほうの限界じゃなくて、寒いほうの限界だ。ここへ来るまでに歩いたおかげで、多少は体が暖まっていたのだけど。でもやっぱり座っているだけだと寒い。いい加減耐えられない。
「……古代種のお姉ちゃん」
「なぁに、赤毛のタークスさん」
レノが呼びかけるというのはかなり珍しい出来事であるのだけど(まあ、話しかけること自体は別に珍しくもなんともない)、やはり彼女は振り向かず、そのままだった。でも別にそれはどうでもいいことで(むしろ自分の呼び方にも彼女的な問題があることは自覚していたし)、レノはさっさと本題を切り出す。早くこの寒さから逃れたい。
「もうちょいで飯の時間だぞ、と」
「うん、そうだね」
「奢ってやるからどっか食いに行かないか、と」
言った瞬間に、女の手がぴたりと止まった。びっくりしたのだろうと勝手に推測する。
まあ、こんなことを言ったことはないし、自分だってついさっきまで言うつもりなんてなかったのだから、驚かれたって文句は言えない。てゆか、自分だってびっくりしてるくらいだ。言われた当人ならそれはびっくりもするだろう。
「……あなた、頭でも打ったの?」
「悪いけど、そんなにマヌケじゃないぞ、と」
「だって!」
そこで初めて、女が振り向く。わりと真剣な顔だったのに、鼻の頭が少し黒くなっている。それにレノはちょっと笑いたくなった。でも我慢。
笑ったが最後、きっと顔に、とても冷たい水が入ったまんまの如雨露がきれいにめりこむ。
女は真っ直ぐにレノと視線を合わせて、言った。
「だって、あなたってすごくケチじゃない」
「……人聞き悪いことを堂々と言ってくれるなよ、と」
もっとも、大まかに考えればそれはあながち間違ってもいないのだから、強くは否定できないのだけど。
レノは真剣な顔で人聞きの悪いことを言う、まだまだ訝しげな顔をした女に、で、と促す。
「飯、行くか?」
「本当におごり?」
「男に二言はないぞ、と」
「お会計表見ていきなり割り勘なんて言わない?」
「言わない」
いい加減しつこいぞ、と言ったら、女はやっと納得したようにうん、と言った。
羽織ったコートの裾を気にしながらもすぐに立ち上がって(やっぱりコートは要るものだとしみじみ思った)、にっこりと満面の笑みで、
「じゃあ、おごらせてあげる」
何かがおかしい言い方ではあったが、レノは深くつっこむのはやめておいた。
彼女が手に持ったままの、そのシャベルを投げつけられてはたまらない。
「ねぇ」
とりあえずウォールマーケットに行くかと教会を出たところで、女が言った。
五番街そばまできたところで、次第に道を行く人の数が増えてきた。雑踏に混ざれば、少し寒さはマシになる。けれどそのぶん喧噪も増して、話す声は自然と大きくなった。
「おごってくれるの、いいけど。どういう風の吹き回し?」
「別に、寒かったからなんか食いたいと思っただけだぞ、と」
「だったらおごらなくてもいい、でしょ?」
なんで、としつこくしつこく訊いてくる女に、レノははー、と息をつく。どう言ったものかと少し考えて、それから頭に浮かんだものをそのままつらつら読み上げることに決めた。
「……『エアリス=ゲインズブール』」
ぼそり、とつぶやくように言ったのは、女の名前。
突然フルネームで呼ばれた女は、きょとんと目を丸くしている。それを知りながら、レノは知らないふりで抑揚もなく続ける。
「出生地、アイシクルロッジ。父親、ガスト。母親、イファルナ。現在はミッドガルの五番街スラムに養母エルミナとともに居住」
そこでちょっと切ったのは、その先を言うことがなんとなくこっぱずかしいような、妙な気分だったからだ。それでもそこで止めたら意味が通じない。そのほうが余計におかしいと、頑張って何事もなかったかのように言葉を続けることにした。
「誕生日、2月7日」
女が、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。じっとこっちを見つめている顔は、驚くというのでもなく、喜ぶというのでもなく。特に表情らしい表情は浮かんでいない。これはまた珍しいなと、ちょっと思う。いつでもくるくると表情が変わる(といっても、レノが見るのは笑っているのと怒っているのがほとんどだけど)彼女の顔が、こんなにも無表情になるなんて。
「わたしの、誕生日。覚えてたの?」
「たまたま今朝、オフィスで資料見ただけだぞ、と」
まるでそれは言い訳のようだと、レノ自身も思った。それを言われたほうの女もやはりそう思ったのか、表情の抜け落ちていた顔が、瞬時に表情を取り戻す。にやりと、笑う。
「あららー、レノってば、かわいい! 照れちゃってー」
「嘘偽りない本当の話だぞ、と」
「そうやって、ムキになって否定するところ、あやしい!」
びしりと指を突きつけて、女はにかにかと楽しげに笑っている。よほど、このやり取りがお気に召しているらしい。
……レノとしては一刻も早く終わらせてしまいたいのだけど。
「つまり、こんなかわいい女の子を、デートに誘いたかったというわけですか!」
からかっていますと言わんばかりの女の顔に、レノはまたはー、と息をつく。これはいろんな意味で諦めるべきだと、腹をくくった。だいぶマシになったとはいえすごく寒いし、こうやってからかわれるし。ただの気まぐれのおかげで、今日はとんだ災難に見舞われている。
そのレノの前に、いつの間にか女がさっと回りこんでいた。腰に手をあてて、こちらの顔をのぞきこみつつ、またにんまりと笑う。なんだかその態度はとてもえらそうだ。そしてそれはきっと、わざとだ。
「いいでしょう、デートしてあげます」
「……お許しどうも、お姫様」
「じゃ、どこ、いこっか」
「せっかくなんで本社ビルまでデートはいかが、と」
「それは絶対おことわり」
うきうきと楽しそうな女の後を歩きながら、レノは思った。
こんなとこをあの鉄面皮の上司に見られたら、きっと自分は命がない。
「ほら、早く早く! いーっぱい、おごってもらうんだから!」
でも、雑踏の中でとても楽しそうに笑う彼女を見たら。
災難とか後のこととか、いろんなものがどうでもよくなってしまった。
最初っから祝ってやるつもりなんてカケラもなかったはずなのだけど、これはこれで、まあいいか。
エアリス、お誕生日おめでとう!
[2006.2.5/2009.9.7 修正]